(1827年~1868年)
文政10年(1827)元旦、長岡藩の中堅藩士・河井代右衛門秋紀の長男として城下に生まれる。
江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷に師事。
長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷論に反対した。
後に継之助は異数の昇進を遂げると、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行。
藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げていった。
戊辰の戦いには中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意。
軍事総督となった継之助は、巧みな戦術で敵を惑わせ、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還。
雪深い越後の国の小藩・長岡藩の名に、新政府軍も恐れ慄いた。
しかし、次第にふくれあがる敵の兵力には太刀打ちできず、再度の落城で長岡軍は会津へと向かう。
傷を負った継之助も、再起をかけて会津をめざすが、途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で悲運の最期を遂げた。
幕末の風雲を駆け抜けた継之助の、生涯をまとめたのが司馬遼太郎の<峠>。
読み進むうちに、継之助の手腕や思想に魅せられていく。