▲お船の方(中村麻美 画)
智将・直江兼続を支えた賢妻。
兼続とともに歩み上杉家のためにも力を尽くした。
お船(おせん)は、与板城主・直江景綱の娘として生まれました。長尾信綱を婿に迎えましたが、御館の乱の後の混乱で信綱が殺されてしまったため、名門・直江家が途絶えることを惜しんだ上杉景勝の命により、樋口兼続が直江家の婿に入ります。兼続22歳、お船の方25歳のときでした。
とても賢い女性であったといわれており、兼続の意向を十分にくんで、常に陰で支えていました。景勝の信頼も厚く、上杉家の奥向きの采配を任せられるなど、藩政にも一部参与したといわれています。
夫婦の仲は睦まじく、一男二女をもうけています。また、当時としては珍しく兼続は生涯側室をもたなかったといわれています。
兼続の死後は後室と呼ばれ、兼続が生前に出版した「文選」の再刊を行いました。
兼続亡き後も上杉家におけるお船の影響力は大きく藩政に関する相談を受け、上杉家家臣の尊敬を集めていたといわれています。また、女性としては異例の禄3,000石を与えられています。
寛永14年(1637)死去(享年81歳)。葬儀は、家臣の妻という立場でありながら、当時としては異例の藩葬と同様の扱いで行われました。直江夫婦の墓は林泉寺(山形県米沢市)に今も仲睦まじく並んで建っています。
また、長岡市与板町にある光西寺周辺は、与板城主であった直江氏三代が住んでいた館跡だと伝えられています。この地でお船が生まれたといわれていることから、地元の住民によって「お船の方生誕御館跡」と刻まれた石碑が建てられました。