▲直江兼続(中村麻美 画)
「愛」の一字を兜の前立てに掲げ、上杉家の重臣として力を尽くした。
豊臣秀吉を魅了し、徳川家康にも一目おかれた智将。
直江兼続は、上田長尾の長尾政景の家臣・樋口兼豊の子として、桶狭間の戦いがあった永禄3年(1560)に越後国魚沼郡上田荘坂戸城(現在の新潟県南魚沼市)で生まれたといわれています。幼名を与六といい、幼い頃から聡明で利発な兼続は、謙信の姉である仙桃院に才能を認められ、その息子である喜平次(後の上杉景勝)に仕えていました。二人は互いに切磋琢磨し、景勝の父・長尾政景の死後、景勝が謙信の養子として春日山城に入るまでを坂戸城で過ごします。謙信死後の後継争いである御館の乱では、景勝側で軍を指揮し、勝利に導きました。
上杉家の重臣である与板城主・直江信綱が、御館の乱の後の混乱で殺されてしまったことにより、名門・直江家が途絶えることを惜しんだ景勝が、信綱の未亡人・お船(おせん)との結婚を勧め、天正9年(1581)に直江家を継がせました。この時、兼続22歳、お船25歳。与板城主となった兼続は、妻の内助の功に支えられ、新田開発、鍛冶産業の振興、道路の整備など城下のまちづくりに力を注ぎました。与板地域の伝統的工芸品「越後与板打刃物」の起源は兼続の時代の頃だと伝えられています。山城守(やましろのかみ)と称し、戦国大名上杉家の宰相として強力な権限を与えられ、豊臣政権下の佐渡制圧、朝鮮出兵など、内政・外交のほとんどを担っていました。兼続は、与板衆と呼ばれる直属の家臣団を配し、景勝政権を与板衆とともに支えていたといわれています。「兼続は上杉家の舵取りを任せられる大きな器の持ち主」と景勝から絶大な信頼を得ていたことが、上杉家文書に出てきます。
また、武芸のみならず、学問を愛し、当代の高僧たちとの親交を深め文化人としての素養も身に付けており、連歌や漢詩にも優れた才能を発揮しました。有能で忠義にあつい兼続を、豊臣秀吉は「天下の政治を任せられる一人」と絶賛し、豊臣姓を授けました。
慶長3年(1598)には、景勝が秀吉の命で会津120万石に移封されました。このとき兼続は、家臣としては異例の米沢30万石を秀吉から与えられるなど、高い評価を受けます。その後秀吉が死去すると、時期政権をめぐる争いとなる関が原の合戦が始まります。徳川家康から景勝にかけられた謀反の嫌疑にも理をもって堂々と反論。これが世に言う「直江状」です。景勝軍は徳川家康と敵対したため、米沢30万石に減封されますが、兼続の働きにより上杉家の存続は許されました。石高が少なくなったにも関わらず、同行を希望する家臣はすべて連れ、米沢でも新しい城下町づくりに尽力しました。
元和5年(1619)に、江戸鱗屋敷で死去(享年60歳)。菩提寺である米沢の徳昌寺に埋葬され、後に林泉寺(山形県米沢市)に改葬されました。
永禄3年(1560) |
坂戸城主(新潟県南魚沼市坂戸)長尾政景の家臣・樋口惣右衛門の嫡男として誕生。この年、上杉謙信31歳。また、政景の長男であり、後の兼続の主君、景勝は6歳。 |
永禄4年(1561) |
謙信、第4回川中島合戦。 |
永禄7年(1564) |
長尾政景、舟遊びの最中、溺死。のちに景勝、謙信の養子に。
第5回川中島合戦。 |
天正1年(1573) |
織田信長、将軍足利義昭を追放、室町幕府滅亡。 |
天正3年(1575) |
この頃から、兼続、謙信の薫陶を受ける。 |
天正6年(1578) |
謙信、死去。
養子景勝と三郎景虎の間に家督相続をめぐって御館の乱が起きる。 |
天正7年(1579) |
三郎景虎、自刃。跡を継いだ景勝は、武田家の菊姫と結婚。 |
天正9年(1581) |
兼続、直江景綱の娘・お船と結婚。以降、直江姓を名乗る。 |
天正10年(1582) |
織田軍に攻められ、上杉家滅亡の危機。
信長、本能寺の変で自刃。 |
天正16年(1588) |
兼続、景勝について上洛し、豊臣姓を許される。 |
文禄1年(1592) |
文禄の役。景勝、兼続、渡韓。 |
文禄3年(1594) |
兼続、嫡男平八景明誕生(幼名竹松)。 |
慶長2年(1597) |
慶長の役。 |
慶長3年(1598) |
会津120万石移封。兼続、米沢30万石を領す。
秀吉死去。遺命により、兼続、太刀兼光一腰拝領。 |
慶長5年(1600) |
関が原合戦。西軍の敗報、米沢に伝わる。 |
慶長6年(1601) |
景勝、米沢30万石に減封。 |
慶長8年(1603) |
徳川家康、征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。 |
慶長9年(1604) |
景勝の妻菊姫、京都で死去。
兼続、本多政重を養子とし、長女お松の婿とする。 |
慶長10年(1605) |
兼続、次女お梅死去。長女も病死。 |
慶長14年(1609) |
兼続、大国実頼(弟)の娘を養子とし、政重に嫁す。
嫡男景明、近江膳所城主戸田氏鉄の娘と結婚。 |
慶長18年(1614) |
大阪冬の陣。兼続、嫡男平八景明と殿軍を務める。 |
元和元年(1615) |
大阪夏の陣。
大阪城落城。豊臣秀頼、淀君自刃。豊臣氏滅亡。
嫡男平八景明死去。 |
元和2年(1616) |
徳川家康死去。 |
元和5年(1619) |
兼続死去。 |