▲兼続から与板衆・本村監物にあてた書状
兼続は上杉景勝の執政として、財政・外交・軍事の全般を掌握していました。多忙な兼続を支え、実務を担当した人々。それが兼続直属の家臣団である与板衆です。
当時の記録によれば、兼続は上杉家の家臣団で最高の五万三千二百十七石という知行高を与えられ、与板衆121名を配下に従えていました。
与板衆は直江家代々の家臣を中心に他国出身者や寺院などで構成され、与板をはじめ、三島・和島・寺泊などに拠点を持っていたことが知られています。
慶長2年(1597)に実施された頚城などの検地は、与板衆の一人・河村彦左衛門尉が奉行を担当。景勝の直轄領である蔵入地の管理は山田喜右衛門尉と窪田源右衛門尉が奉行を任されました。
さらに佐渡・庄内など、拡大した領土の支配も兼続とともに担当しました。
与板衆は景勝の直臣らと同格の重要任務に従事することもあり、兼続の地位向上を背景にして、政権内の重要な任務を担ったのです。
兼続の仕事を支えながら、与板地域周辺に暮らした与板衆の活躍がしのばれます。