「先年不慮之鉾楯有之節被抽忠信条無比類候、因之当寺為開基之験般若院并法用寺分之事宛行之畢、永代不可有他妨者也、仍如件、 天文甘辛亥3月2日 景虎花押 常安寺」
(先年思いがけない戦争の折の忠信振りは比べものがなかった。それで常安寺の開基の験(しるし)として、般若院分並びに法用寺分を寄進する。永代他からの妨げがないようにこの文書を与える。)
上杉謙信が栃尾城に在城した青年期(14~19歳)に、学問と修行に打込んだ寺が宮沢にあった瑞麟寺です。ところがその後同寺は天文18年(1549)に焼失してしまい、これを承継した形で建立されたのが谷内の常安寺です。開基は謙信、開山は謙信と旧知の間柄の瑞麟寺五世門察和尚です。
謙信は天文20年(1551)にこの寺の開基の験として、秋葉三尺坊を管掌する別当という般若院の所有財産と、法用寺の寺領を寄進しました。その時の安堵状がこれです。般若院は、岩野の蔵王堂にあった般若院叶坊(かのうぼう)で、今日の秋葉三尺坊です。また法用寺は、栃尾町城下の横町(今の表町)に舌状に突き出た台地にあって、常安寺と法用寺と呼応して西谷口を守る要塞の役をなしていたものです。
<長岡市指定文化財>