源義経の愛妾「静御前」の生涯は、伝承に頼らなければなりません。
静の母は磯禅尼(いそのぜんに)という※白拍子だったといわれ、静も母と同様に白拍子になり、京の都で舞を舞っていました。生来から際立った美貌の静は、源氏の若大将源義経の目にとまり、その愛妾となります。
※白拍子(しらびょうし)…平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞を歌い舞う遊女
やがて、義経は兄の頼朝の怒りをかって頼朝に追われる身となり、静と別れます。静は頼朝の追っ手に捕らえられ、鎌倉の頼朝の前に引き出されます。頼朝と妻の政子は静に舞を所望し、静はやむなく、扇を手に舞い始めます。
<吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき>
生き別れた義経を慕い切々と歌い舞う静に、頼朝は烈火のごとく怒り刀に手をかけます。その頼朝を妻の政子が「主を思う女心は、女にしかわからないものです」といさめました。政子の言葉に頼朝は怒りを解き、静は命を救われます。
傷心の静は、みちのくの平泉に落ちのびた義経を追って平泉を目指しますが、頼朝の兵たちが厳重に固める太平洋沿いの道は北上できません。そのため、静と従者たちは越後に出て、そこから山中を会津へ抜け、さらに平泉に向けて北上するという長い道のりを選びました。道中には、世情名高い八十里越えの難所があります。ところが長旅の途中、栃堀までやって来た静は病を患い栃堀に逗留することになりました。そして、建久元(1190)年4月26日、従者たちの看護のかいもなく静は若い身空で世を去ります。従者たちは栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けることになりました。この庵が、後の高徳寺であるとされています。
明治の末、静の話を聞き知った小向村のセイという娘が静を哀れみ、自らが機を織って稼いだ金を細々とたくわえ続け、静の供養のための石塔を建立しました。これが、今に残る栃堀の高徳寺の丘に建つ「静御前の墓」に隣接する石塔です。
ちなみに、歌手の三波春夫さんも生前、静御前の芝居をするために静御前の墓の参拝に訪れています。